ある日の深夜、ウィルは部屋で書き物を進めていた。
予定のない翌日に甘えて、少しでも本業を進めようという考えだ。最初はこれまでの記録を整頓する程度のつもりだったのだが、始めてしまえばこれが中々に捗ってしまい、もう短針は日付を超えて下りに入っている。ウィルが最後に時計を見た時には11時頃を指していたので、2時間ほどの間、脇目もふらず作業に没頭していたことになる。
「……さすがに疲れたな」
キリのよいところで筆を置いて、ウィルは思い切り背中を伸ばした。ずっと机を向いていた身体は、突然の方向転換に驚いて声を上げる。
書き物のお供にと、初めに淹れておいたコーヒーのカップを持って、ウィルは窓際に立つ。誰もかもが寝静まった遺跡船からは、驚くほど多くの星が見えた。
「ん?」
その星星と、街頭の明かりを受けて、庭を横切る白い影。ふと視線を落としたウィルの目に、一階で眠っているはずのセネルが家を抜け出しているの光景が飛び込んだ。
「何をしているんだあの馬鹿者は……」
二階から見る限り、セネルの足取りは確かではない。今にも倒れそうだというわけではないが、迷子の子どものように自信なさげな進み方は、ウィルの不信感を煽った。
別にウィルは、セネルがこそ泥の真似事をするとは思っていない。それは仲間として向けるセネルへの信頼の証でもあるし、そもそもセネルにそこまでの欲があると思っていなかった。
「……寝ぼけてるんじゃないだろうな」
どういう寝相なのか、セネルを居候させて以来、寝た場所と起きた場所が一致していた日をウィルはほとんど知らない。てっきり寝ている間に転がって移動しているものだと思っていたが、あのように歩いて彷徨った末の結果だというのなら、これまでのことにも納得できてしまう気もする。
「とるあえず、追うか」
見つけた以上、放っておくことは、ウィルにはできない。保護者としても保安官としても仲間としても、街灯の外に消えていったセネルの背中は安心して見送れるものではなかった。
セネルがウィル邸を抜けだしてからおよそ三分後。その後を追うべくウィルは自宅を後にした。セネルを窓から見つけた当初はそのまま追いかけるつもりだったが、万が一セネルが道を踏み外そうとしていた場合に備えて、少し時間を掛けた出発だった。さすがのウィルにも、丸腰でセネルを抑えられる自信はない。
三分間も目を離した相手を見つけられるか、多少の不安を抱えての出発だったか、しかし案外にあっさりと、その遅れは克服された。
街のほとんどが寝静まり、同色の街灯が等間隔に道を照らすだけのウェルテスでは、セネルの白い後ろ姿は想像以上に目立つ。遮蔽物の隙間からでも、探していれば見つけるのは容易かった。
「……しかし、あれでは幽鬼のようだな」
力ない足取りで進むセネルを観察しながら、ウィルは一人呟いた。
セネルの背筋は伸びていて、その歩みも、覇気はないがフラついてもいなかった。しかしいつもその背から漂う、緊張感に満ちた生命力は、ほとんど感じられなかった。それが夜中のせいなのか、寝ぼけているとき特有のものなのか、ウィルには判断がつかない。
セネルはウェルテスの外れへと向かっていった。その辺りには商店が少なく、明かりの落ちた民家が静かに身を寄せ合っていた。セネルの挙動に気を使いながら、特に隠れたりはせず堂々と後ろを歩くウィルは、この先に何があるのかを知っていた。
「墓地、か……?」
硬い階段を少し登ったところにある墓地。
ウィルはあまり墓地にいい思い出を持たない。元来、死者が眠るそこで幸せな思い出が作られることは少ないが、ウィルにはまた別の思い出があった。
心ごと捧げようと誓った愛しい人の死。参列すら許されなかった葬儀。授かった愛の種が墓石を涙で濡らし、その嗚咽とともに叫ばれる己への怨嗟。我が身を灰にしてでも守りたい命だからこそ、その光景はウィルの心を抉った。
知らず胸の中心を掻いたウィルを置いて、セネルは石段を上っていた。行く先はやはり墓地。セネルが自分自身よりも大切にした人が眠る場所。
石段を上り消えていくセネルの姿を見送っても、ウィルは動かなかった。立ち止まって、自分がどうするべきかを決めかねていた。
追うべきか、待つべきか、帰るべきか。
夜中に家を抜け出し、墓地を訪れるという行為がセネルにとっての逢瀬ならば、邪魔をすべきではない。
セネルが悪事を働くつもりがないことも確認した。
いくら予定がないとはいえ、これ以上起き続けていれば、明日の日常生活にも支障をきたすかもしれない。
そこまで考えてもなお、ウィルの足は動こうとしなかった。
もしウィルがセネルの立場であれば、最愛の人との語らいを邪魔されたくはない。わざわざこっそりと家を抜けだしたのに、それを尾行され、あまつさえ外乱としてやって来られれば、誰しも気分を害するだろう。
普通に考えれば、追うべきではないのだ。
失った経験を持つウィルは、一般論と経験論から、そう考える。
しかし放って置けないと、仲間として、保護者役として、どうしても思ってしまう心があるからこそ、ウィルは動けない。
ゆらゆらと、陽炎のような頼りなさで街灯の下を歩く背中を、一人残せない。
セネルが何を求めてここを訪れたのか、本当の所、ウィルには分からないのだ。
たとえほんの一時でも、彼女と共に暮らし、愛を育み、命を授かったウィルに、17歳の少年があの時何をその胸の内に住まわせたのかなど、推測することはできても、知ることはできない。
「……」
冷えた夜気を思い切り吸い込んで、静かに吐き出す。その最中に何がウィルの胸中によぎったのか、それはウィル本人にしか分からない。
けれど、ウィルの視線は階段の上を向いていた。
ウィルが足音を立てて近づいても、セネルは動かなかった。墓石に背を預け、ゆっくりと流れていく夜の雲を見上げている。
その隣にウィルが立っても、それは変わらなかった。呼吸さえ忘れていそうなセネルに、ウィルは眉を寄せた。
「セネル」
静かに声をかける。風が通り過ぎる音と、虫の鳴くかすかな声。聞こえないはずはなく、事実、セネルは視線をウィルに向けた。
「……なんだよ」
不愉快そうな声だった。その瞳は、自分の後ろを見られていたことを察していて、尾行されたことへの不快感を隠しもしないかった。
その姿を見て、ウィルは自分の心がひどく痛むのを感じた。
結局セネルはまだ、ステラの死を傷にすらできていなかったのだ。自分の心を鞘にして、触れれば切れるその記憶を、ぎゅっと握りしめていた。
傷にすることすら罪のようで、悲しむことは逃げるようで、だから受け入れるという罰を、文字通り行なってしまったのだ。
「セネル」
ウィルはもう一度、セネルの名前を呼んだ。絞り出した声は、深い痛みを伴っていた。
「だから、なんだよ」
ウィルを見上げるセネルの目が、剣呑さを孕む。
ウィルはその視線を、まっすぐに受け止めた。自分にはセネルを救えないと、気づいた。
「ステラさんは、死んだ」
できるだけ平坦な声を装って、ウィルは言った。セネルの目が驚きで見開かれるのを、逸らさずに見据えた。
「彼女はここに眠っているが、もういない」
セネルの口が引き結ばれていく。
「……ここで彼女に話しかけても、返事はないだろう」
ぎゅっと握られたセネルの拳が、限界だと震え始めた。
「そんなことッ……!」
激昂したセネルが怒鳴るのと同時に、ウィルは片膝をついた。
「あぁ。お前はそれを知っていて、受け入れている」
そして、片腕でセネルの頭を抱え込んで抱きしめた。
「っ!?」
ウィルの肩口に乗ったセネルの顔が、驚きで引きつる。
ウィルは目を閉じ、セネルを抑えこむように両手で抱いた。
「セネル、受け入れることと悲しまないことは違う」
先ほどまでの乾いた話し方から一転し、悲哀の混ざった声で語りかける。
「お前は傷ついていい。悲しんでもいい。わざわざここに来て、ステラさんがいないことの痛みを確かめるくらいなら、泣け」
セネルは驚いた表情のまま動かなかった。ウィルの体温がセネルの頭を混乱させていたが、ウィルの声はそれに乗ってセネルの心に染みこむ。
「愛や慈しみで人は生まれてくる。けれど、それだけでは人は育たない。悲しみも憎しみも知って、初めて育つ部分もある」
セネルは動かない。ウィルも、語るだけで動く気配はない。
「セネル。事実を受け入れることと悲しみを受け入れることは、違う」
夜風がセネルの髪を揺らした。
それで初めて自分の身体が動くことに気がついたかのように、セネルの顔がくしゃりと歪む。
ウィルは、初め、セネルを癒すつもりだった。愛する人を失って、しかし前に進まざるを得ず、心だけを置き去りに背中を押されることならば、ウィルにも経験があった。
しかし、セネルの心はウィルが思う以上にずっと強かった。ウィルが悲しみという傷で置き換えた痛みを丸ごと抱えながら、セネルは心を縛る鎖を引きちぎった。
だからウィルは、わざとセネルを煽った。浅慮な刃は、セネルの心に隙間を作った。
その隙間に、セネルが何を置くのか。それはウィルにはどうにもできないことで、だからウィルは、免罪符のように語った。セネルがそれを選ぶように、と。
「お前がどう生きるかを、俺は縛ることが出来ない」
ふっと息を吐いて、ウィルがセネルを抱きしめる腕から力を抜いた。自信のない声は、確証のなさから来たものだ。
「ただ、お前が心を痛めれば、それを悲しむ人がいる。それだけを忘れるな」
最後に一度、ぽん、と軽く銀髪を撫でて、ウィルは立ち上がった。セネルは視線を伏せたまま動かなかった。
「風邪を引く前に帰って来い。戸締りは任せるぞ」
セネルに背中を向けて、ウィルは最後にそれだけを伝えた。
雲が流れていた。
雲の切れ間から差し込む月光は、誰かの心の色に似ていた。
セネルは動かない。呆然とウィルを見送って、やがて糸が切れたかのようにへたり込んだ。
ステラの冷えた墓石に寄り添う形になりながら、セネルは胸の中を締め付ける痛みにそっと耐えた。涙は出なかったが、泣きそうだった。
「ステラ……俺は……」
答えがないことなど、とうに知っていた。
あの温もりが帰ってこないことも、知っていた。
知っていたのに、セネルにはもう分からなかった。
風が、涙のような銀髪をさらっていった。
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後味が悪くて非常に申し訳ないです。
CP文とも言いがたい上にシリアス気味でした。本当にすいません。
くず湯